大袈裟なタイトルだけど、これは私が考えたわけではない。
ある日(2007年3月7日)の早朝のことだったと思う。
寝ていたら、いきなり目の前が明るくなった。
その光は、虹色がすべて混ざり合った様子であたり一面が鱗状に黄金色に輝いていた。
頬に触れる空気は暖かく心地よい、言葉にするなら「愛に満ちた」感触だ。
言葉にするのも気持ち悪いし、空々しいがこの言葉しか浮かんでこない。
突然、周囲から太く低い多分男性のような声が響き渡った。
数学と芸術はみな同じものだ。人生で一番大切なのは美意識だ。
ってはっきり言われた。
???てなって目が覚めた。
これって、いわゆる「メッセージドリーム」ってヤツか?
言葉の理解度って不思議で、聞いたことがある言葉でも実体験が伴わない言葉はピンとこないし、実際理解できていないことが多い。
例えば、「胸焼け」ってことば、胃腸薬の宣伝で聞いても、これだけはピンとこなかった。
ところがある日、お酒を飲んだ翌日に目が覚めると胸元に不快感が…その時に瞬時に、これが「胸焼け」か…と、理解、いや悟ったのだ。
これが「メッセージドリーム」か…まさに悟りである。
この日から、「美意識」について考えることが多くなった。
美意識だけが真実?
私は最終的には「美しさ」しか信じない。
だから美しさを美しいと正しく判断できる感覚と正しく受け入れる心の状態を保つことは何にも増して大切。
私は人間の本性は「スピリチュアリティ」であると信じている。
信念というのは、人が生きて行くうえでとても重要なものだ。
スピリチュアリティが自分の姿であるならば、そもそも自分とは存在しないし、自分と認識しているものは自我に過ぎない。
自我の考えからでも、人間や世界を正しく理解しようと心がけたい。
その想念が世界をつくっているから。
自分という幻想に囚われた肉体は自分ではない。
だから身体を大切に扱わなければ言えないし。
よく考えたら、自分の「分」って分けるという意味ですね。
「自」を分割した一部が自分なのかもしれない。
自とは、単純に「存在」のこと。
自分という幻想に囚われた自我は自分ではない。
だから心を大切に扱わなければならない。
自分も他人も同様に扱う。
自分は世界の一部で世界は自分の一部なのだから、世の中で起きている悲惨な出来事も、輝かしき出来事も自分の一部なのだから、何事も自分ごとなのだ。
だから「美」を通して他者とつながることは、他者の中にある明るい部分を表面化することと同義。
小さな明るいつながりが増えることで、大きな光が現れるのだ。
表面は一番外側の中身なのだから、「美」というのは、表面だけの話でなはいのだ。
中身の美しさは、ささいな時に表面化するのだ。
だからその兆候を素早く察知して正しく判断できる感覚と
正しく受け入れる心の状態を保つことは何にも増して大切。